実録:CAD派遣ライフ

パソコン、キーボード CAD派遣

 

山あれば谷ありなミラクル派遣ライフ

図面デビューはサインペンでの手描き

震災直前の1994年に、神戸市内の不動産会社へ入社。

入社の決め手は、不動産会社にも関わらず、9時~17時勤務で土日休みだったこと。月2回だけ土曜出勤だったが、半ドンという恵まれた環境。

 

そこで営業事務職に就くも、一ヵ月半後に阪神・淡路大震災が起こる。

 

震災後の不動産処理を数多く目の当たりにする中、復興が始まる頃から、サインペンで手描きの間取り図を描きはじめる。

 

CADオペレータ デビュー

1997年の夏、タバコの煙とクーラが寒すぎることに限界がきて退職。

 

その後、職業訓練校で「インテリアコーディネーター&CAD講座」受講し、1998年の年始、大阪の特定派遣の会社へ入社。就業しながらAutoCADを学ばせてもらい、経験を積んでいく。

 

入社後2年間は、社内のCADセンターで、来る日も来る日も手描き図面をCAD化(手描き図面をCAD図面にして客先へ納入する)。建築、設備、土木図面など様々な分野の図面に触れ、CADでトレースする機会を得る。

 

図面を描く以上のことができない悩み

その後、社外企業へ出向して経験を積むが、複数のCADソフトの習得はできても『図面を描く』以上の知識が無いことで、業務上行き詰まりを感じるようになる。

 

仕事の将来性が機械図面の方があると独自に見込んだことから、機械系CADオペレータへの異動願いを提出。(建物は一度建ってしまえば、建て直しまでの期間が長い。機械モノは建物に比べて製品サイクルが短いから)

 

念願叶って社外へ出向することになるが、機械図面は建築図面とまったくルールが違うことに遅ればせながら気づく。

 

分からないことが多すぎて、そもそも何が分からないのかが分からなくて、仕事へ行くのが恐怖に(泣)

 

そこで、扱えるCADの種類を増やすのではなく、機械設計の基本を学ぶことを決心。2002年秋に特定派遣の会社を退職し、大阪での一人暮らしを引き揚げて神戸の実家へ戻る。

 

社会人通学+フラメンコはじめる

翌年30歳になる年に、今は無き大阪工業大学短期大学部へ社会人入学。18時~21時過ぎまで、授業2コマを受けるために、週6日2年間通学。

 

昼間は派遣でCADオペレータの仕事をし(このときも1日6時間勤務にしてもらっていた)、夕方退社後に夜間通学しながら宿題をし、実験レポートなども書き、1年目はそれでやっていけた自分に自信を持つ。

 

時間が押す中、2年目はさらにフラメンコを習い始めて、勉強+独特のリズムや振付も覚え、元々行動的だった私がさらに行動的に。フラメンコはその後6年続け、ガロティン、ソレア・ポル・ブレリアのソロ経験有。

 

時短勤務でも時給アップを交渉

実は私、社会人通学で6時間の時短勤務をさせてもらっているときに、時給アップ交渉をしている。さらに、それから4年にわたり合計600円の時給アップ実績がある。

 

時短勤務での時給アップ交渉は、一歩間違えば仕事を干される可能性もあったが、どうしても機械設計の基礎を身につけたいと訴えて派遣契約は継続となり、30歳を目前に社会人入学。

 

「今さらそんなことやって何になるの?」との反対もあったが、消費ではなく投資の考えで学びに行ったことで、学びたかったことが学べただけでなく職種もレベルアップ。

 

「お金かかるのに・・・」と周りから心配された学費も、卒業後2年ほどの時給アップ分のみですべて回収する。

 

時給アップ交渉失敗、クビ切られそうに

2005年の夏、機械部品メーカで設計補助の仕事を登録型派遣にて開始。

二年半ほど働いた次の契約更新で時給アップ交渉するも、「君の席はもうないから」とクビを切られそうに。派遣で生きると固く決めたのにもかかわらず、正社員への転職活動を開始。

 

女35歳、正社員転職のカベは厚かった

噂には聞いていたものの、女35歳、派遣社員から正社員への転職活動は厳しいことを痛感中だったところ、運よく派遣先を継続できることに。

 

派遣にも関わらず、機械CAD設計の経験を積ませてもらう機会を得るが、何をやっても裏目に出てストレスがたまる毎日を送る。

 

感情に飲まれ、被害者意識だらけだった自分と向き合ったことで・・・

そんなとき、「前世見てくれるところあるよ」と職場の同僚にチラシを渡され、ヒプノセラピー(催眠療法)という言葉を知る。

 

数ヵ月後、派遣先での人間関係の悩みから自分自身の感情の波に手がつけられなくなり、2009年「前世よりも現世(今)を何とかしてほしい!!」とヒプノセラピーを受ける。

 

そうして、「自分のせい」とか「私が悪かったんだ」と自己否定したり、自分を責めるのとは違う「すべての元は自分だった」と腑に落ちたことが転機となり、あれだけ辛かった精神状態がだんだん楽になっていった。

 

喉から手が出るほど欲しかった方法、見つけた

その後、自らもヒプノセラピーを学ぶようになる。

その学びの過程で、潜在意識を活用したセラピー(心理療法)は癒しだけでなく、人の潜在能力を最大限に発揮できるようになるツールであることを知る。

 

20代前半までやっていたラケットボールというスポーツの試合で勝ちたかった頃、喉から手が出るほどほしかった情報がそこにあったことに驚きと魅力を感じた。

 

派遣の仕事を週4日に

2010年に別のヒプノセラピー講座を受けたとき、『人は無意識に自分の作った思い込みのイメージやプログラムの中で生きている』ことをデモセッションで目の当たりにし、「悩みって自分が創ってるんや・・・」とイスから転げ落ちそうになるほど驚く。

 

悩みの原因が他人にあれば、問題解決までの道のりは他人次第。

 

でも、原因が自分にあるとするなら、自分次第ですぐにでも解決に向かえる。

 

「これ、悩んでいる人が知ったら喜ぶはず!」といてもたってもいられなくなり、2011年、派遣元・先に「セラピストと機械設計を両立させたい」と事情を話し、勤務日数を減らすことを相談。

 

すると、「みんな働きすぎなので、休暇を取ってもよい見本になってほしい」と派遣先にもまさかの快諾をいただき、週4日勤務とさせてもらえることに。

 

派遣先でサークル活動

その後、週4日勤務なのにも関わらず、平日夜に速読サークルを開催させてもらう。目的は、どの状態が人の潜在能力が活発になるのか?の実験のため。(事前に本人の許可を得ている)

 

仕事が一段落する19時から50分間、派遣先の会議室を借りて2年間にわたり行なう。計56回、24名に参加いただく。

 

また、「コーチングで会議を進めたら、もっとみんなの意見が活発に出て決定が早くなると思うんです!」と提案したところ、「じゃぁ議長になってやってみて」とトータル2年ほど任せてもらい、派遣のわりにいろいろ提案しては、やりたいようにやらせてもらえていた。

 

起業内容決めずにフリーになって驚かれる

派遣の仕事を辞めようと思った理由は大きく2つある。

一つは、「これからは自分の決めた道を邁進していこう。私自身が心からやりたいと思っている仕事をしていこう」と思ったこと。

 

もう一つは、「いくらスキルアップしていくら時給アップできたとしても、雇われて働いている限り仕事に就けるか就けないかの主導権は自分にはない。でもゼロから仕事を生み出し1→2→3とビジネスを回していけるようになれば、どんな世の中でも生き残っていける」と思ったこと。

 

この二つが重なり、2014年初夏「そうだ 京都、行こう」のごとく、「そうだ、辞めよう」と思った4日後ぐらいに退社の旨を伝える。

 

ただし、具体的にこの仕事で食っていきますと辞めたわけではなかったので、周りから「で、次は何の仕事するの?」と聞かれて言葉につまる。

 

送別会でみなさんにヒアリングしていただいたおかげで、話すたびにプランがまとまっていくというありがたい体験をする。

 

現在は?

具体的な内容は決めてなかったが、「筆文字を習いたい」という声をいただいたことから、かっこよくかわいい文字が描ける、普段使いの筆文字講座を開発。

 

現在は、筆文字をきっかけとして様々なつながりが生まれ、個人でお仕事させていただいている。(筆文字講座、個人セッション、読書会など)

 

私にとっての派遣ライフ

山あり谷ありどん底ありだった、私のCAD派遣ライフ。

 

終わってみれば、いろんな経験させてもらえた人生の一コマとなりました。楽しかったな^^

 

携わってきた図面

機械図面
・乗用車のタイヤ(金型図)
・プラント(配管図)
・キュービクル式高圧受電設備(筐体図)
・油圧ショベル・ブルドーザー(部品図)
・鉄道用ブレーキ部品の試験機(組図、部品図、筐体、配管、電気・空気回路図)

建築図面
・工場(鉄骨図)
・家屋(平面、立面図)
・ショッピングセンター(意匠計画図)

土木図面
・高速道路桁(平面、断面)
・橋梁桁(平面・断面)

設備図面
・電気
・衛生
・空調設備

使用CAD

<2D>
AutoCAD
JW-CAD
AdvanceCAD
MICRO CADAM (MC/X)

<3D>
Mechanical Desktop
CATIA V4
Pro/E※Mechanical Desktop以外の3Dは、派遣元で研修を受けたレベル。3Dの概念は分かるが実務は2Dメイン。

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